『ドナウの叫び』ワグナー・ナンドール物語 下村徹著/幻冬舎
水曜日のことだっただろうか、朝刊の1面の下にある新刊案内が目に飛び込んできた。
”ワグナー・ナンドール!””ハンガリー人の彫刻家!”
まさか・・・いや、あのワグナーさん以外にいるはずがない。
こともあろうに、私はこの彫刻家にデッサンを習っていたことがあったのだ。
父に車で連れられた先には「和久奈南都留」という表札がかかっていた。不思議な入口のアトリエで、一般の住宅とは違っており、ワグナーさんは2階と思われるところから降りてきたものだった。
千代さんという、自分の母親に近い年齢の、しかし、派手ではないが稟とした美しさと知性漂う雰囲気を持つ奥さんがいて、2人は英語で会話し、それを奥さんが我々に伝えてくれるのであった。
確か中学3年だった私のために、当時、美術を志したらどうか、とアドバイスをくれた父親が、当然美術大学受験のない田舎の益子で、どこからか探し出してきてくれた”先生”だった。
生徒は3人、19歳という、でもどう見ても16歳位にしか見えない女の子(人?)と、1つだか2つ上の窯を持つ家の息子という高校生の男の子、そして私だった。
「中3の冬休みにここに来るとは余裕だな。」とその高校生に言われた事を覚えている。
19歳の女の人が「今日のモチーフは何ですか?」と言うのを聞いて「モチーフ?それって何?」と密かに思ったこともあった。
元旦をはさんで所謂冬期講習と同じ期間、朝から6時間程度ひたすらデッサンをしていた(たぶん、でも昼ごはんはどうしたのだろう。家に戻ったのか??)。
”モチーフ”は美術学校のような石膏ではなかった。
画板を立てるイーゼルと、それにつながっているまたいで座る椅子に座りもくもくと描き続けた。この本から想像するに、その画板+椅子はワグナーさんが作ったものだったのかもしれない。
その後、受験のため美術学校に3年通ったが、ついぞそんな代物は見たことがなかった。
1日が終わると奥さんの通訳によってワグナーさんの講評が行われた。
この講習が終わるころだったか、「あなたは建築に向いている。そうワグナーは言っているわ。」と奥さんの千代さんに告げられたが、「建築ぅ~?でも数学苦手だし・・・。」
その時は、気にも留めなかった。しかし、”建築”が20年後、俄然自分の中で興味を増し、この時のワグナーさんの言葉をはっきりと思い出したが、もはや、方向転換するエネルギーは持ち得なかった。
講習の最後に”宿題”が出され、たしか皿とリンゴを描いたデッサンを持って、1週間後、ワグナー家を訪れた。
その日は生徒一人の私に昼食がふるまわれた。陶芸をやっているという住み込み?の女性がおり、ワグナー夫妻と4人で囲んだ食卓には、片栗粉をまぶして揚げた「から揚げ」が美しく載っていた。ごはんとみそ汁とから揚げ、品数は少ないが、調度が美しく、内心「何か違う洗練」を感じていた。
しかし、それ以上に驚いたのは「食事の前の祈り」があったことで、そんな習慣のない自分は戸惑うばかり、わずか数分がやけに長く感じられたことを覚えている。
高校生になると、宇都宮まで週末毎に「受験用の美術学院」に通う事になり、その後ワグナーさんに会う事はなかった。
ワグナーさん自身は、奥さんより少し年上の世代に感じられたし、外国人という事で、15歳程度の私には何とも言いようがなかった。ただ、温かみのある人柄であることは容易に理解出来たし、怖いとか嫌だという感覚はなかった。
この本を読んで、ワグナー・ナンドールという彫刻家がいかに優れた人であったのか初めて知ることが出来た。
益子に「ワグナー・ナンドールアートギャラリー」があるのに、愚かにも今まで行って見ようと考えもしなかった。
そうか、約30年前のあの当時、ワグナー夫妻は益子の地に住んでまだ10年にもなっていなかったのか・・・
そう言えば、父が奥さんの千代さんの出自について何やら話していたのを思い出した。
義理がたい父は、その後私に代わって時折ワグナー家を訪れては、「あの時、お世話になった娘」の報告をしていたようであった。もちろん、結果、美術の道は諦めたことも。
そして、おおよそ10年前、ワグナーさんが亡くなった事を、これもまた父から聞かされたのであった。
他人にはどうでも良いような話を長々と書いてしまった。
でも、”どこかに書いておきたい”、「私にとって」特別にそう思わせる1冊であった。
そうだ、年末に父に聞いてみよう。
「何故、あの時、どういう経緯でワグナーさんを知り、どんな話をつけて娘に絵を教えてもらう事になったのか。」を。
最近のコメント